むずむずする言葉たち2012/02/13 23:03

相変わらず色々食べてます。


あり合わせ巻き寿司とか(節分の日に海苔の匂いに惹かれて恵方巻を買ったら、次の日もまだ海苔を食べ足りない気がしたので)、


ジャガイモと玉葱のグラタンとか。久し振りに作ったらえらいおいしかった。チーズはドイツのステッペンと、ブルーチーズを少しだけパラパラと。このブルーチーズがアクセントになって良かったかも。


食べ物とは全く関係ないけど、最近インターネットを巡っていてどうしても気になる言葉遣いが幾つかある。最近というか、自分がネットを利用するようになって目に付くようになったので結構以前からということになるか。自分の場合TVは見(られ)ない・新聞や雑誌も定期的に買ってはいないため、現在ニュース・情報関係はほとんどネット経由で得ているというだけで、実際はネットに限らずあちこちで使用されているのだろうし、日常の会話などでも既に普通に使われているのだろうとは思うが、これらの気になる言葉遣いの多くは少なくとも自分の周囲(家族や友人との直接の会話やメイルなど)で実際に誰かが使うのを聞いた記憶がないのもあって、ネット上の特殊な言葉遣い…ってわけでもないよね…などともやもやしている。ちなみにこれらを目にするのは検索などでたまたま行き当たる企業や個人サイト、ブログ、質問掲示板や大規模な開放型コミュニティ掲示板、Twitterなどが多いので文体としては比較的砕けたものの場合が多いが、ニュース記事などの場合もたまにある。と、いうわけで以下非常に個人的な見解かつ長いので悪しからずご了承のほどを。

今思いつくところで挙げてみると、まず「声かけ」。これは割と以前から地域の広報とか何かでも「近所での声かけを徹底しましょう」のように使われていたとは思うが、最初にはっきり違和感を覚えたのはだいぶ以前にネット上で「○○(場所)でお声がけした××(名前)です」と言われた時だった。当時は個人ウェブサイトの掲示板上でのやり取りが活発だったので、ある掲示板でたまたまちょっとやり取りした方から別の機会に上記のように挨拶されたのだが、この「お声がけ」というのが正直何っっっともむずむずした。

「声をおかけした××です」なら何も違和感なかったと思うのだが、「声かけ(がけ)」という何だか無理矢理名詞にしたような表現は、自分の中では上で挙げたように町内会の回覧板とか体育系のクラブ活動か何かで「ちゃんと声かけしてけよー!」みたいに使われる「あまり正しい言葉ではないけど便宜的に名詞化・簡略化されて容認されている使い方」のように(漠然と)認識されていたので、ほぼ初対面の相手に敬語で話しかける際に使われたのに正直驚いた。相手との認識の差と言ってしまえばそれまでなのだろうけど、更に細かい事を言うと「お声がけ」と何だか変なところに「お」がついているのもむずむず。いや、単なる丁寧の「お」なのは判るけど、「お声」と考えると自分(わたしから見た相手)の声におを付けられてもな…と。まあこの辺り、わたし自身敬語丁寧語謙譲語を普段完璧に理解/使いこなしているとは到底言えないので、他人の事をあれこれ言えた義理でもないと言われれば反論できないけども。

もう一つ、多分上とそう変わらない時期に初めて聞いた(実際は書かれた文章なので「見た」だけど)「言葉足らず」。相手の話に対してこちらが何か質問した際に、「言葉足らずですみません」と返されたのだったと思うが、内心こんな言い方があるんだ?!と思いつつこちらも何となく合わせて「いえ、わたしこそ言葉足らずだったかもしれませんね」とか返してみたが、どうにもむずむずして気持ち悪かったので、無理はいかんなと判断して以降自分で使おうとは思わない。と言うか、後から「説明不足」という言葉ではなぜいけないんだろうか…と思った。が、それ以来この「言葉足らず」ネット上では頻繁に目にするようになった(それ以前にもあったのかもしれないが)ので、これも日常会話でも使われている…のだろうな。実際に聞いたことないけど。

上の二つよりは比較的最近になって目立ってきたかなと思うのが、「上から目線」。これも初めて見た時はなんじゃそりゃーと思った。上の「言葉足らず」もそうだったけど、言ってる事は判るものの余りに(自分の常識の範囲から見て)突拍子もない表現を使われると、いや何かもっと普通の言い方があるだろう…えーとなんだっけ、と混乱して一瞬思い出せなくなったのだが、これは動詞の「見下す」ですな。ここまで挙げた3つのうち特に後の2つは、元々同じ意味の言葉が既にあるのになぜわざわざ全く別の表現が出てくるのか不思議。同じ事を表すのにいくつもヴァリエーションがあるのは確かに珍しい事ではないが、それにしても何だかむずむずする。

更にもう一つ、これはかなり最近になって目に付き始めた「…なく」という否定の表現。例えば何かの状況の説明の中で、「私には兄弟がおらず、」と言うところを「私には兄弟がいなく、」「彼はまだ帰宅しておらず、」を「彼はまだ帰宅していなく、」「彼女はそうした事はせず、」を「彼女はそうした事はしなく、」というような。初めて見た時はものすごい違和感だった。いや今でもそうだけど。最初は「いなくて、」「しなくて、」の書き間違いかと思ったが、以降も何度も見るようになったので間違いではないらしい。それなりに砕けた話し言葉的な文章なら「いなくて」は全く問題ないと思うが、「いなく」って何なの。何なのその中途半端な切り方。というか会話で言うならともかく(それでも実際言われたら変だけど)、ブログとか何かの記事で文章に打つ時違和感は感じないのだろうか。あくまでも自分の印象だけども、先に挙げた声かけだの何だのはすっきりはしないながらもとりあえず日本語ではあると認識できるのだが、なんかこの「いなく」に至ってはもはや文章どころか言語でさえないような気がするんですが。「いなく、」のいきなり「、」で切られちゃってるところから何かがガラガラ崩壊してるような。

で、今も現在進行形で方々で見かけるこういう言葉遣いに感じる(あくまでも自分が、です)むずむず=違和感は、明らかに成人した大人が書いているにもかかわらず見られる「表現の幼稚化」のような気がする。言葉の専門家でも何でもない自分がこういう事を言うのも非常に口はばったいのだが、「幼稚化」以外に適切な言葉が見つからない。簡略化?でもないし。「声かけ」は文章を短くするためかなにか分からないが「声をかける」という動詞が不自然に名詞化されている感じだし、「声かけをする」とか結局動詞にするなら最初から声をかけるの方が綺麗な表現じゃん!と思うし、「言葉足らず」「上から目線」はあまりに直接的過ぎると言うかだから「説明不足」「見下した態度」じゃ何でダメなのさ!と思うし、「〜いなく、」はもう何がなんだか分からない。小学校の作文で「わたしはきのうは出かけていなく、」とか書いたら先生に直されるんじゃないかと思うけど。ちなみに上の例文だと「出かけなかったのか、それとも出かけていて家に居なかったのか」というのもあやふやだが、実際そういうどっちなの?という文も時々目にして混乱する。何かこう、全体的に日本語の語彙と活用の知識の少ない子供が自分の知っている簡単な言葉を繋ぎ合わせて何とか文章にしている、というような印象なので「幼稚」と思ってしまうのかな。

非常に場当たり的かつ勝手に自分が感じる「幼稚化」の特徴を考えてみると、既に書いたが1)元々名詞ではない品詞を何となく無理矢理な感じで名詞化(声かけ、言葉足らず、上から目線)する、2)行動や状況を見たそのままの非常に直接的な表現をする(言葉足らず、上から目線)、の二つが大きいような気がする。1)の例で他に思いつくのは「学び」とか「気づき」などもそう。この二つはネットよりは書店の雑誌などで10年?20年?前辺りから妙に目についてやはりむずむずする言葉遣いだなあと思っていたものだが、女性をターゲットにしたと思われる雑誌などが多いようなので、言葉の響きを何となく柔らかくしようってことなんだろうか??「学びを通して得るもの」>「学習/(技術や知識の)習得を通して〜」、「経験の中での気づき」>「経験の中で気づくこと」でいいじゃん…と思うんですが。わざわざ名詞化する必要性が感じられないと言うか。30年くらい前にはこんな言い方しなかったと思うんだけど。

一番分からない「〜いなく、」は、推測でしかないが親しい誰かに直接話す時なら「それでね、私は昨日は出かけてなくてね、だから…」と言うのをほぼそのまんまウェブサイトなりブログなりに載せるための文章にだだだっと打って、途中で「あ、書き言葉にしなくちゃ」と思い出して中途半端に直した結果「出かけていなく、」という妙な日本語になったのではなかろうか…そうでも思わないと他にあんな中途半端な文になる原因が思いつかない。アップロードする前に読み直さないんだろうか、とか読み直してもおかしいと思わないんだろうか、とは思うけど。ちなみにさっきちょっと「いなく、」で検索してみたところ、ニュース記事で「(汚染された地域に)人間はいなく生物の多様性が云々」とかいう記事のタイトルが引っかかってきた(チェルノブイリ事故で居住不可とされた地域の記事)。「おらず」とか「存在せず」だろうそこはどう考えても。まあニュース記事とは言っても元記事が某女性週刊誌のようだけど。…女性週刊誌の記事ってそんなもんってこってすか。

上のような新しい(?)言葉や表現が幼稚に聞こえてしまうというのは完全に自分の主観なので、別に幼稚には聞こえない、単なる言葉の変化でしょと思う人もいるだろうし、実際にこれらの表現を違和感なく使っている人がこのブログを見たら「何言ってんのこの人偉そうに」とむっとされそうだなとは思う。生きた言語は常に変化するものだというのは解るし、周囲で新しい言葉が使われているのをしょっちゅう耳に(目に)しているうちにいつの間にか自分でも慣れて使ってしまうという状況も理解できるので(自分も時々あるし)、そういう表現を使う人がいたからと言ってもそれはその人の選択なので(まあそこそこ日本語が通じる限り)一々批判するつもりはないのだが、既に同じ状況を表すのに適切な一般的表現が存在するのに、わざわざ?流行ってるから?周りの皆が使ってるから?不自然な(というのもわたしの主観だけど)表現を選ぶのは、何だかやっぱり幼稚な気がするのは事実なわけです。

と、久々にだらだら長々書いたけどここに書いたからってむずむずする日本語が世間から無くなるわけでもないし、むしろ今後も増えるんだろうなーと思いつつ、ずーーーっともやもやしていたので覚え書き的に書いてみたわけですよ。何だか上から目線でごめんあそばせってことで。

コメント

_ みもざ ― 2012/02/15 14:51

「幼稚化」、耳が痛いですw
最近自分の話す言葉が感覚的なものばかりになってきました。「うざ!」とか「まずっ!」とか「くさっ」とかお前は赤ん坊か!と自分で自分に突っ込みをいれたくなるときがあります。
社会に出て働いていないとおかしくなるのかなぁと思っていましたがそうでもないのかな。りあんさんのおっしゃる違和感はそれほど狭くない世界から受け取っておいでの気がしたので。
私は「子供の育ち」とか「気づき」とかその辺に気持ち悪さを感じます。大体なんで子供がダメで子どもがいいのかもわからないしw
キモ過ぎて蕁麻疹でてカイカイになるわー、とまたここで子どもみたいな表現が出てきてしまう…。
ペンで気持ちを書き綴ればもう少しまともな表現もできそうなものですが。
これ以上退化しないように気をつけなくてはいけませんね。
この間国会議員が何かを聞かれて「こんなことは好きくない」とか答えていて馬鹿なのは自分だけじゃねーじゃんと安心したのはまた別の話…。

_ りあん ― 2012/02/16 20:43

幼稚化、他人事みたいに書きましたがわたしも普段生活していると本当に必要以上の語彙を使わなくなるので、久し振りに長い文章を一から書こうとするとまあ言葉が出てこないこと、一番幼稚化してるのは自分かも…と思いました。よく外国語の習得に関して「毎日使わないと錆びる」と言いますが、母国語も同じだなーと今更ながらに思います。もっと適切な表現があると知っているはずなのに出てこなくなるのですよね。本文に挙げた最近の不思議な表現も、本来使われている表現を思い出せなかった誰かが思いつく言葉を適当に繋いで言ったのが広まったとかいう経緯もあったりするのでしょうか。

ここ最近のわたしの日常の情報取得先の90%位はインターネットだと思うので、これはこれで狭い世界かなぁとも思うのですが、一方でネット上で目にする文章は公的なもの以外にも一般の人たちのサイトやブログ、コミュニティなどに溢れてますし、そういう場を利用する人たちの年齢も立場も今は本当に広範囲に渡っていますよね。最近は企業サイトや公的機関のサイトに広報を兼ねたブログがあるのも珍しくないですが、たまにこれ書いてるのってここに勤めてて多分広報課とかに所属してる人なんだよね…このブログがあると却って母体の会社なり機関の印象が悪くなるんじゃ…と思うものもあったり。ネット上に見えるものだけで今の風潮はこうだと断じてしまうのも短絡的だですが、ある程度は社会の縮図的なものになっているかなとも思います。

「気づき」誰が言い出したんでしょうね。「子供の育ち」なんて言葉もあるんですか?「お里が知れる」的な意味で育ちが出るとかわかるとかいう使い方はありますが、「子供の育ち」は多分単に「子供の成長」という意味で使っているのかな。成長ではいかんのでしょうか。子供がダメで子どもがいい??も謎です。字面の問題なんでしょうか???ひらがなはやさしくみえるからみんながよろこぶのかな? …それこそ子供の絵本でもなければ馬鹿みたいですが。

> 「こんなことは好きくない」
…………国会議員さんですか………orz

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