むずむずする言葉たち2012/02/13 23:03

相変わらず色々食べてます。


あり合わせ巻き寿司とか(節分の日に海苔の匂いに惹かれて恵方巻を買ったら、次の日もまだ海苔を食べ足りない気がしたので)、


ジャガイモと玉葱のグラタンとか。久し振りに作ったらえらいおいしかった。チーズはドイツのステッペンと、ブルーチーズを少しだけパラパラと。このブルーチーズがアクセントになって良かったかも。


食べ物とは全く関係ないけど、最近インターネットを巡っていてどうしても気になる言葉遣いが幾つかある。最近というか、自分がネットを利用するようになって目に付くようになったので結構以前からということになるか。自分の場合TVは見(られ)ない・新聞や雑誌も定期的に買ってはいないため、現在ニュース・情報関係はほとんどネット経由で得ているというだけで、実際はネットに限らずあちこちで使用されているのだろうし、日常の会話などでも既に普通に使われているのだろうとは思うが、これらの気になる言葉遣いの多くは少なくとも自分の周囲(家族や友人との直接の会話やメイルなど)で実際に誰かが使うのを聞いた記憶がないのもあって、ネット上の特殊な言葉遣い…ってわけでもないよね…などともやもやしている。ちなみにこれらを目にするのは検索などでたまたま行き当たる企業や個人サイト、ブログ、質問掲示板や大規模な開放型コミュニティ掲示板、Twitterなどが多いので文体としては比較的砕けたものの場合が多いが、ニュース記事などの場合もたまにある。と、いうわけで以下非常に個人的な見解かつ長いので悪しからずご了承のほどを。

今思いつくところで挙げてみると、まず「声かけ」。これは割と以前から地域の広報とか何かでも「近所での声かけを徹底しましょう」のように使われていたとは思うが、最初にはっきり違和感を覚えたのはだいぶ以前にネット上で「○○(場所)でお声がけした××(名前)です」と言われた時だった。当時は個人ウェブサイトの掲示板上でのやり取りが活発だったので、ある掲示板でたまたまちょっとやり取りした方から別の機会に上記のように挨拶されたのだが、この「お声がけ」というのが正直何っっっともむずむずした。

「声をおかけした××です」なら何も違和感なかったと思うのだが、「声かけ(がけ)」という何だか無理矢理名詞にしたような表現は、自分の中では上で挙げたように町内会の回覧板とか体育系のクラブ活動か何かで「ちゃんと声かけしてけよー!」みたいに使われる「あまり正しい言葉ではないけど便宜的に名詞化・簡略化されて容認されている使い方」のように(漠然と)認識されていたので、ほぼ初対面の相手に敬語で話しかける際に使われたのに正直驚いた。相手との認識の差と言ってしまえばそれまでなのだろうけど、更に細かい事を言うと「お声がけ」と何だか変なところに「お」がついているのもむずむず。いや、単なる丁寧の「お」なのは判るけど、「お声」と考えると自分(わたしから見た相手)の声におを付けられてもな…と。まあこの辺り、わたし自身敬語丁寧語謙譲語を普段完璧に理解/使いこなしているとは到底言えないので、他人の事をあれこれ言えた義理でもないと言われれば反論できないけども。

もう一つ、多分上とそう変わらない時期に初めて聞いた(実際は書かれた文章なので「見た」だけど)「言葉足らず」。相手の話に対してこちらが何か質問した際に、「言葉足らずですみません」と返されたのだったと思うが、内心こんな言い方があるんだ?!と思いつつこちらも何となく合わせて「いえ、わたしこそ言葉足らずだったかもしれませんね」とか返してみたが、どうにもむずむずして気持ち悪かったので、無理はいかんなと判断して以降自分で使おうとは思わない。と言うか、後から「説明不足」という言葉ではなぜいけないんだろうか…と思った。が、それ以来この「言葉足らず」ネット上では頻繁に目にするようになった(それ以前にもあったのかもしれないが)ので、これも日常会話でも使われている…のだろうな。実際に聞いたことないけど。

上の二つよりは比較的最近になって目立ってきたかなと思うのが、「上から目線」。これも初めて見た時はなんじゃそりゃーと思った。上の「言葉足らず」もそうだったけど、言ってる事は判るものの余りに(自分の常識の範囲から見て)突拍子もない表現を使われると、いや何かもっと普通の言い方があるだろう…えーとなんだっけ、と混乱して一瞬思い出せなくなったのだが、これは動詞の「見下す」ですな。ここまで挙げた3つのうち特に後の2つは、元々同じ意味の言葉が既にあるのになぜわざわざ全く別の表現が出てくるのか不思議。同じ事を表すのにいくつもヴァリエーションがあるのは確かに珍しい事ではないが、それにしても何だかむずむずする。

更にもう一つ、これはかなり最近になって目に付き始めた「…なく」という否定の表現。例えば何かの状況の説明の中で、「私には兄弟がおらず、」と言うところを「私には兄弟がいなく、」「彼はまだ帰宅しておらず、」を「彼はまだ帰宅していなく、」「彼女はそうした事はせず、」を「彼女はそうした事はしなく、」というような。初めて見た時はものすごい違和感だった。いや今でもそうだけど。最初は「いなくて、」「しなくて、」の書き間違いかと思ったが、以降も何度も見るようになったので間違いではないらしい。それなりに砕けた話し言葉的な文章なら「いなくて」は全く問題ないと思うが、「いなく」って何なの。何なのその中途半端な切り方。というか会話で言うならともかく(それでも実際言われたら変だけど)、ブログとか何かの記事で文章に打つ時違和感は感じないのだろうか。あくまでも自分の印象だけども、先に挙げた声かけだの何だのはすっきりはしないながらもとりあえず日本語ではあると認識できるのだが、なんかこの「いなく」に至ってはもはや文章どころか言語でさえないような気がするんですが。「いなく、」のいきなり「、」で切られちゃってるところから何かがガラガラ崩壊してるような。

で、今も現在進行形で方々で見かけるこういう言葉遣いに感じる(あくまでも自分が、です)むずむず=違和感は、明らかに成人した大人が書いているにもかかわらず見られる「表現の幼稚化」のような気がする。言葉の専門家でも何でもない自分がこういう事を言うのも非常に口はばったいのだが、「幼稚化」以外に適切な言葉が見つからない。簡略化?でもないし。「声かけ」は文章を短くするためかなにか分からないが「声をかける」という動詞が不自然に名詞化されている感じだし、「声かけをする」とか結局動詞にするなら最初から声をかけるの方が綺麗な表現じゃん!と思うし、「言葉足らず」「上から目線」はあまりに直接的過ぎると言うかだから「説明不足」「見下した態度」じゃ何でダメなのさ!と思うし、「〜いなく、」はもう何がなんだか分からない。小学校の作文で「わたしはきのうは出かけていなく、」とか書いたら先生に直されるんじゃないかと思うけど。ちなみに上の例文だと「出かけなかったのか、それとも出かけていて家に居なかったのか」というのもあやふやだが、実際そういうどっちなの?という文も時々目にして混乱する。何かこう、全体的に日本語の語彙と活用の知識の少ない子供が自分の知っている簡単な言葉を繋ぎ合わせて何とか文章にしている、というような印象なので「幼稚」と思ってしまうのかな。

非常に場当たり的かつ勝手に自分が感じる「幼稚化」の特徴を考えてみると、既に書いたが1)元々名詞ではない品詞を何となく無理矢理な感じで名詞化(声かけ、言葉足らず、上から目線)する、2)行動や状況を見たそのままの非常に直接的な表現をする(言葉足らず、上から目線)、の二つが大きいような気がする。1)の例で他に思いつくのは「学び」とか「気づき」などもそう。この二つはネットよりは書店の雑誌などで10年?20年?前辺りから妙に目についてやはりむずむずする言葉遣いだなあと思っていたものだが、女性をターゲットにしたと思われる雑誌などが多いようなので、言葉の響きを何となく柔らかくしようってことなんだろうか??「学びを通して得るもの」>「学習/(技術や知識の)習得を通して〜」、「経験の中での気づき」>「経験の中で気づくこと」でいいじゃん…と思うんですが。わざわざ名詞化する必要性が感じられないと言うか。30年くらい前にはこんな言い方しなかったと思うんだけど。

一番分からない「〜いなく、」は、推測でしかないが親しい誰かに直接話す時なら「それでね、私は昨日は出かけてなくてね、だから…」と言うのをほぼそのまんまウェブサイトなりブログなりに載せるための文章にだだだっと打って、途中で「あ、書き言葉にしなくちゃ」と思い出して中途半端に直した結果「出かけていなく、」という妙な日本語になったのではなかろうか…そうでも思わないと他にあんな中途半端な文になる原因が思いつかない。アップロードする前に読み直さないんだろうか、とか読み直してもおかしいと思わないんだろうか、とは思うけど。ちなみにさっきちょっと「いなく、」で検索してみたところ、ニュース記事で「(汚染された地域に)人間はいなく生物の多様性が云々」とかいう記事のタイトルが引っかかってきた(チェルノブイリ事故で居住不可とされた地域の記事)。「おらず」とか「存在せず」だろうそこはどう考えても。まあニュース記事とは言っても元記事が某女性週刊誌のようだけど。…女性週刊誌の記事ってそんなもんってこってすか。

上のような新しい(?)言葉や表現が幼稚に聞こえてしまうというのは完全に自分の主観なので、別に幼稚には聞こえない、単なる言葉の変化でしょと思う人もいるだろうし、実際にこれらの表現を違和感なく使っている人がこのブログを見たら「何言ってんのこの人偉そうに」とむっとされそうだなとは思う。生きた言語は常に変化するものだというのは解るし、周囲で新しい言葉が使われているのをしょっちゅう耳に(目に)しているうちにいつの間にか自分でも慣れて使ってしまうという状況も理解できるので(自分も時々あるし)、そういう表現を使う人がいたからと言ってもそれはその人の選択なので(まあそこそこ日本語が通じる限り)一々批判するつもりはないのだが、既に同じ状況を表すのに適切な一般的表現が存在するのに、わざわざ?流行ってるから?周りの皆が使ってるから?不自然な(というのもわたしの主観だけど)表現を選ぶのは、何だかやっぱり幼稚な気がするのは事実なわけです。

と、久々にだらだら長々書いたけどここに書いたからってむずむずする日本語が世間から無くなるわけでもないし、むしろ今後も増えるんだろうなーと思いつつ、ずーーーっともやもやしていたので覚え書き的に書いてみたわけですよ。何だか上から目線でごめんあそばせってことで。

あっちで呟きこっちで呟き2011/07/09 23:58


実家から戻る途中の乗り換え駅で買ってきた会津木綿、の端布。端布でも結構たっぷりあるので色々使えます。最近は色々カラフルな柄も出ているが、こういう色や織り方は昔ながらの会津木綿らしい。




昨日と同じ場所の写真を更に違う角度から。しつこいですか。




更に違(以下略)。


ところで、実は少し前に人もすなるTwitterと云ふものを我もしてみむとて始めてみたのです。iPadを使い始めてTwitterサイトや登録ページも正常に見られるようになったしね。しかし、正直まだこれは自分に合っているのか必要なのかよく分からないので様子見中。必要ないかなと思ったらやめるかも知れない。好きなミュージシャンや興味のあるサイトは大抵Twitterでも情報を発信しているので、フォローするといち早く情報が得られたり本人の日常Tweetが読めたりして楽しいというのはあるけれども、自分自身にそんなに言いたいことがあるのか、という根本的な部分がですね。サイトもブログもあるし、更にあーやこーや言う程のことが(自分に)あるのかなとも思ったり。いや、色々書くのは好きなんだけど書き出すとあれもこれもだらだら書いてしまう「短く簡潔に」が苦手なタイプなので、Twitterのような媒体は向いていないのかもかも。携帯電話も持たないしね。

まあそれはそれとして、日本でもTwitterが広まり出した頃から気になっていたと言うかちょっと面白いと思っていたことなのだが、twitterという単語はロゴなどにも象徴されているように鳥のさえずり(名詞)、鳥が「高い声でさえずる」(動詞)そこから派生して人が「(小鳥のさえずりのように)震え声で興奮して喋りまくる」というような意味があるので、米国を中心に普及し始めた時はなるほど、誰か自分の言いたいことを聞いてくれ!という人が手軽な媒体を通じて色々発信したり主張したり同好の志を見つけて交流する場なのだな、と理解していた。tweetも名詞で「鳥のさえずり」。が、日本語版ができてみたらなぜかtweetが「呟き」と訳されている。「さえずり」だと「ねーねーねー聞いて聞いてあのねーあのねー!」てイメージなのだが、「呟き」はなんか「まあ、うん…ぶつぶつ」て感じで対極じゃないですか。前者は(元々の鳥のさえずりの目的から考えても)他者に聞かせることを意識しているのに対して、後者はあまり他者を意識していないと言うかむしろ内にこもっていると言うか。

初めはなぜあえて「呟き」と訳したんだろうかなー、確かにそのまま「さえずり」じゃ分かり辛いかも知れないけど…と不思議に思っていたのだが、そのうちこれは日本人と欧米人の感覚の違いが出ているのかも、と思えてきた。まあ余り日本はこう欧米はこうと一括りにするのも乱暴ではあるけども、やっぱり欧米は基本的に自分の考えをはっきり主張することが良しとされる文化なわけで、だからTwitterのような個人的に話題や情報を発信する場でも「ねーねー聞いて聞いて」と積極的に他者に働きかけ(さえずり)、それに共感した他者とさえずり合ったり(retweet)互いに発言を追いかけ(follow)合ったりするけれども、伝統的に控え目が美徳とされる日本にあっては声高に主張するという行為はなんか恥ずかしい、でも言いたいことはある…ので他者を意識しつつもあくまで独り言的に「呟く」、でその呟きを聞き付けて反応してくれる人がいると「あ、聞いてくれました?いやー独り言のつもりだったんですが聞いててくれて嬉しいなぁ」てな感じで繋がりが広がる、とかそういうイメージかなと。

あちこちにある小鳥の絵と一緒に「呟き」という言葉を見たり「Twitterで呟いてみよう!」とかいう表現を見るといまだに違和感はあるものの、tweetをあえて「呟き」という日本語に訳したのは日本人の性質をうまく捉えた上でのことなのかもね。「あなたもTwitterで主張しよう!」と言われたら「えー別にそこまでしなくてもー」と思うかも知れないが、「呟いてみませんか?」なら「呟くくらいならやってみてもいいかも♥」とかいう感じで日本でもTwitterが広まったんではなかろうか。なんてことを勝手に思って面白がってる訳ですが、わたくしも日本人なのでやっぱりさえずるよりは呟く派です。ブログと同じで自分の覚え書き的な使い方になりそうな気もする。という訳でここで時々ぶつぶつ言ってます。とりあえずフォローしているtweetsが海外のものばかりなので、日本語英語ちゃんぽんでまさに独り言状態ですが。

…ちょっと考えてみた。元々の青い小鳥のロゴだと可愛いけど「呟き」という印象には何だか合わない。小鳥じゃない日本向けのロゴと言うかキャラクターを作るとしたら何ですかね。「呟き」は英語だとmutteringとかmumblingとか…   ふと「不思議の国のアリス」の芋虫が思い浮かんだんですが。キノコの上でパイプふかしながらぶつぶつ言ってるみたいな。   「あなたも呟いてみませんか?(陰気な芋虫ロゴ)」    広まりませんか。


初ホームBBQ体験2009/10/18 23:48

仕事で日本滞在中の友人Hが日曜に帰国するのと、週の間にちょうどHの誕生日があったのもあって、昨日はHの同僚兼友人(兼、今回Hは出張後半Sのマンションに間借していたので家主)のS宅でバーベキュー。S宅には何度も行ってバーベキューセットも見てるけど、実際バーベキューに使われるのを見るのは初めてです。わーい。Sは他の友人数人と、すぐ近所のマンションに引っ越してくる友人の引っ越し手伝いに行っていたので、わたしが午後早くに着いた時にはHが一人でBBQの準備をしていた。既にわたしにも南瓜切りという作業が待っていたので(「固くて切れなかったので諦めたけどりあん(仮名)ならきっと切れるな!と思って取っておいた」。)がしゅがしゅ南瓜切ったり酒類の買い出しに出たり(自分用に烏龍茶)しているうちに先に抜けてきたSの友人KさんとCさん到着。Cさんとは初体面だったが、英国のウェールズ出身ということで自分もウェールズ行ったことあるよ!地名がうまく発音できないけどいいとこだったよ!とか言いながら、Cさんに習ってバルコニーでBBQの炭起こし(というのかな)開始。初めてやったけど結構楽しいですね。煙たいけど。

暗くなってきた頃にSと、引っ越してきたSの友人で新しくご近所さんになったWさん到着。Wさんの新居マンションはSのバルコニーからすぐ見える場所。さーてバーベキュー...と思ったら雨がぽつぽつきたので、BBQセットを窓際に移動し、焼き係(なんて言えばいいのか)のSとCさん以外は室内に。


異次元写真になってますがBBQ中のSとCさん。海老焼いてます。自分はこういうホームBBQは実質初めてだけど、広いバルコニーの隅っこで傘さして海老焼いてる光景がかなりミョーな状況であることは分かります。


お腹が満ちた頃には雨も止んでいたので、皆でワイン片手に(わたしは烏龍茶です)バルコニーへ。S宅には蝋燭や蝋燭立ても沢山あって(と言うか行く度増えてる)個人的に羨ましい。最近買ったらしい写真の大きなランタンはバルコニーにいいねえ。ちなみにIKEAで買ったそうです。


後から更にCさんの友人のMさんも加わり、色んな話で盛り上がって楽しゅうございました。自分的に一番「!!」だった話題は、英語の「海老」談義。海老を食べたのでそういう話になったのだと思うが、Cさんが「shrimpは米語で、英国では使わない。英国では大きくても小さくても大抵はprawn。king prawnとかtiger prawnとかbaby prawnとか。あとlobsterとか」と言ったので、途中までうん、うんそうだね、と聞いていた自分もえっっちょっとちょっと待って、じゃscampiは?と聞いたら

「scampiは、僕の理解するところでは大抵の場合衣を付けて揚げたprawn」

             え?

え?え?ちょちょちょっと待て、それってscampiは海老の「種類」じゃないってこと?じゃ生、あるいは生きてる状態でscampiと呼ばれるものは存在しないってこと??

「しないよ。scampiはprawnを刻んでボール上にして衣を付けて揚げたやつ」

確かに、自分が英国でよく食べたscampi & chipsのscampiも海老団子フリッターのような感じで、日本の天麩羅とは違って海老の身を叩いて丸くしたのに衣を付けたんだろうなとは思っていたが、scampiが好きだっただけに日本に帰国してから辞書で調べたら「車海老」とあったので、まあ日本の車海老と全く同じではないにしても「scampi」という種類の海老がいるものだとばかり思っていた。この時までは。というわけで結構な衝撃を受けていたところ、ここでiPhoneを持っていたWさんが語学サイトで海老関係について調べてくれた。

が、なんかサイトによって言ってることがまちまちではっきり言って余り助けにならない。説明は尤もらし気だが平たく言うとprawnの説明に「shrimpの一種」とあるのにshrimpの説明を見ると「prawnの一種」とある、とかそんな感じで非常に突っ込みどころ満載。scampiも海老の種類とも取れるような記述もありつつも、いきなり料理が出てきたり(例えば「海老の一種。衣を付けて揚げたもの、または茹でてレモンなどを絞って食べる」とか)、どこまでが「scampiの定義」なのかヨクワカラン書き方(iPhoneの画面を見たわけではないので、Wさんがそのまま読み上げたのを聞いただけだけど)。しかしCさんは「scampiは調理されたものである」と一貫して主張。...考えてみれば、確かにscampi & chips以外にscampiという単語を聞いた憶えはない。そうか...scampiという海老はいないんだ...

と衝撃の事実にショックを受けつつ、帰宅してアルクの『英二郎 on the web』で検索してみたら

scampiの検索結果

...どういうことですか。しかもその下のshrimp scampiってなんじゃそりゃ。ますます混乱。今度CさんWさんに会ったら言ってみよう。


そして夜遅く帰宅して気付いたこと。      自分がとっても煙臭い.............

Congratulations, Roger.2009/07/06 23:58


昨夜(日本時間)のウィンブルドン男子決勝、めでたく(←個人的に)スイスのロジャー・フェデラーが米国のアンディ・ロディックに競り勝ちましたな。やたー。新記録のウィンブルドン15勝達成でもあるし、昨年スペインのラファエル・ナダルに連破を阻まれた後でもあるので喜びもひとしおでありましょう。...しかし疲れた。いや自分は第2セットが始まってから見始めたし(深夜になってからだろうと思ってたらBBCサイトで既にライヴ記事が上がっていて慌ててTVをつけた)ただTV観てるだけだしぶっ通しで四時間対戦してる二人が世界中で一番疲れてるわけだけど、特にあの第5セットは疲れたー。去年のフェデラーXナダル戦もあんなだったような。リードしては追い付かれリードしては追い付かれ。

でも3時間を越えて双方疲れてきてるなーというのは分かっても、最終セット後半になっても追い付かれこそすれリードされはしなかったフェデラーはやはり凄いと思う。ミスで1ゲーム落として追い付かれても、次のゲームで凄い鋭角ショットを連続で決めてあっさり1ゲームリードに戻したりというパターンが何度もあった。逆のパターンは(憶えている限り少なくとも最終セットでは)なかったので、やはりその辺りが現時点の両者の力の差なのかな。BBCの実況の人が「When the going gets tough, the tough get going」と言っていたが、まさにその通り〜!と思った。

この「When the going...」、日本語にすると「困難(tough)な状況(going)では、強靱(tough)な者が生き残る(get going)」くらいにしか訳しようがないので、原文の言葉遊び的なリズムが全くなくなってしまうのが残念。「タフな状況を切り抜けるのはタフな者だけ」とか...うーん全然うまくないな。get goingで「動き出す」「活動を始める」という意味もあるので、「世の中が厳しい状況になると、タフな人々が(世直し的な意味で)動き出す」というニュアンスで使われることもあるらしい。後半のthe toughはこの場合「タフな人々」と複数扱いなので、続くgetも単数形のgetsではなく複数形。今ちょっと検索してみたら、この言い回しはアメリカン・フットボールの監督の名言だとか?言葉の響き自体がそれこそタフでマッチョな感じがするので違和感はないけど、そこが初出だとすると随分新しい。それ以前にはなかった言い回しなんだろうか。どうでもいいけどタフタフ書いてたら「タフ」がゲシュタルト崩壊しそうになってきた。

ちなみに、80's音楽好きとしては「When the going gets tough, the tough get going」と言えばやはりビリー・オーシャン(Billy Ocean)のヒット曲が思い浮かぶわけですが。ハリウッド映画『ナイルの宝石』のテーマ曲というかエンド・タイトル曲?だったので、主演のマイケル・ダグラス、キャスリーン・ターナー、ダニー・デヴィートが白スーツ着てビリーの後ろで踊りながらコーラスするというえらい豪華なプロモーション・ビデオが楽しゅうございました。

...いつの間にか全然違う話になってますが。ウィンブルドンに話を戻して、今年は(去年もだったかも)仕事してたり何かで結局決勝戦しか観なかったので、誰が勝った負けたはBBCサイトのヘッドラインでちらっと見る程度だったのだが、去年の優勝者のナダルが開幕直前に棄権してたって知りませんでした。うろ覚えだけどBBCのヘッドラインでは「試合に負けた」とも取れるような表現だったので、予選で予想外の敗退か何かだったのかと思っていた。残念だったねラファ。

ウィンブルドンは試合そのものもだけどBBCの実況と解説の人たちのコメントや掛け合い(?)、ちょっとした軽口みたいなのも面白いので、一旦見始めると他のことが手につかなくなるのがちょっと困ると言うか。いや楽しいんだけど。昨日の決勝の解説はティム・ヘンマン(去年だか一昨年引退した英国の選手。国内では毎年期待されてたけど大抵クォーター・ファイナルまで残らないので日本ではほとんど放送されたことがないと思う)とボリス・ベッカーだった模様。あと合間合間に画面に映る意外な著名人なんかも原語だと(当たり前だけど)ちゃんと言及してくれるので楽しい。日本音声だと実況・解説の人が知らない分野の人・英国内の著名人なんかは何のコメントもないままずーっと画面に映っているだけでかなり間抜けなんだな。ボルグとかサンプラスとか貴賓席の人々は当然として、昨日はサッカーのマイケル・バラックとかマンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督、俳優のラッセル・クロウなんかが観客席においででした。あ、あとウディ・アレン(と奥方)もしょっちゅう映ってたな。皆テニス好きなのね。

BBCサイトに載っているRolexの広告(大会の公式時計がRolexらしく開催中はウィンブルドンのロゴを載せていた)に、今日になったら「最高の業績達成おめでとう、ロジャー(Congratulations Roger on a lifetime of crowning achievement)」という祝福の言葉が載っていたのはちょっと粋だなと思った。


土曜日の収穫・続き2009/03/08 23:58



昨日六本木ヒルズの展望台から撮った夜景。ぶれてます。夜景モードにすればよかったのかも。でも夜景モードだと成功と失敗の差が激しいんだなー。


そして森美術館で観た全光榮展のパンフレットと共通チケット、友人Hに貰ったひつじ石鹸。石鹸いい匂い~。以前とは形(普通の四角)も袋も違うけど、やっぱり袋のひつじ絵がカワイイ。



美術館であった、後から思い出して笑っちゃったこと一つ。展示を見終わってクロークに預けておいたコート類を取りに行こうとしていたら、ちょうど目の前の受付だか何かのカウンタに外国人女性がてくてくやってきて一言はっきりと「トワレテ?」  toiletだろうなぁ、どこの国の人かいなと思いつつ通り過ぎようとしたら、カウンタ内の女性が説明に苦労している様子。友人Nが英語で助け舟を出したが、トワレテさんは「うっ、英語分からないの!」と(確かブロークンな英語で)おっしゃる。お手洗いのサインはすぐ横の壁に矢印付きで描いてあるし、その矢印なりに行けば10-15mも行けばすぐ分かるのだが、とにかく言葉が通じない。カウンタの女性も「そっち(サインの示す右手前方)に行けばすぐ分かりますってどうやったら分かってもらえるんだろう~」とややパニック気味。

どこの人?と聞けば良かったのだがそれも何だか失礼な気が(その時は)したし、彼女の言葉の断片からも何語の人なのかよく分からない。こちらはドイツ人+英国人+日本人だが、トワレテさんはどう見てもアングロサクソン系ではない。もちろんアジア系でもない。仕方ないのでとりあえずやさしい英語その1的な単語で「こっちこっち。ほらほら」と壁のサインのところまで連れて行き、(美術館だけに)やや意匠化され過ぎでそれと分からないのかも、と思い「これがトイレットのサインね。で、向こう(矢印の方向)」と指差すと、右手前方に同じサインを見つけたのか「おー!Si! Si!」と大喜びするトワレテさん。あ、やっぱりラテン系かと思った瞬間彼女は「アリガト!」と言って元気に化粧室に向かった。  結構切羽詰まってた模様。

やや呆然としつつ「...Siって言ったね」「スペイン人(イタリア人かも知れないが)?」「あれ、じゃHスペイン語話せたじゃない」「や、まあちょっとだけ...」いや、化粧室の場所を説明するには十分過ぎるほど話せるはずだ。でもトワレテって何語?とか思っていたら、カウンタの人が「あの、どうもありがとうございました。助かりました!」とわざわざ出てきて下さった。何かあまり助けてもいなかったようなと言うかみんなでわたわたあわあわしてたような気がするので「あ、いえいえ~あはははは」とか皆で和んだことであったよ。色々大変ですねこういうところの人達も。日本に来る外国人も大抵は簡単な英語なら分かるだろう、と思いがちだけど、英語ダメなのって言われちゃうとなぁ。ていうかあのトワレテさん、日本語もダメ英語もダメでよく一人で六本木ヒルズの美術館まで来られたな。わたしも旅行は好きだけどさすがに言語が全く通じない国は「ちょっと言葉を勉強してから...」と思う。トワレテさんの勇気に乾杯。トワレテさんが元気に日本を楽しんでくれますように。

そしてその帰宅途中、列車の中で「そうだ、9時に間に合えばTokyo MX TVで『ホームズ』が見られるではないか!」と気付いて途中で夕ご飯を買いつつ急いで帰り、着いたのがほとんどジャスト9時。で、MXをつけたら『瀕死の探偵』だったーーーーー。もうあれ大好き。笑っちゃうんだけど大好き。ワトスンがシリアスになるほど笑っちゃう。でもあの話、原作は既にホームズが「瀕死」になったところから始まるのを、そこに至るまでの脚本をきっちり作っているのがさすがだと思う。原作の場合いきなりカルヴァートン・スミスが偉そうに出てきてあんた誰って感じなところ、ドラマではスミスの怪しげな人物像とかなぜホームズがあの愉快な、じゃない大変な事態に至ったかを無理なく見せている。各俳優もそれぞれはまり役でいいねえ。この頃になるとホームズ役のジェレミー・ブレットが実際本当に具合悪そうなのと、台詞の切れと言うか声の張りが...というのがちょっと切なくはあるけども、やっぱり何度見ても面白いのですよ。何度見てもなぜ牡蠣なんだ...とも思うけど。いやこれは原作者のドイルに聞かないと分からんか。海の底が牡蠣だらけに...牡蠣好きとしては割と嬉しい事態な気もする。そういう問題じゃないか。